1969年のヒット曲 YoutubeでPV視聴ヒットパレード【無料音楽動画試聴BLOG】

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千賀かほる「真夜中のギター」

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千賀かほる「真夜中のギター」無料音楽動画視聴
真夜中のギター」は、1969年8月10日に発売された千賀かほるのデビューシングルで、44万枚を売上げオリコンチャート最高4位となった、千賀かほるの代表曲です。

日本中の大学で学生運動が渦巻いていた69年に大ヒットした「真夜中のギター」は、まだデビュー前の段階で深夜のラジオ番組にテープを流したところ、これが評判となって一気にその人気に火がつきました。

当時は学生フォークの全盛期であり「真夜中のギター」もフォーク調であった事もヒットの一因だったようです。この年、千賀かほるは「真夜中のギター」でレコード大賞新人賞に輝き、売れっ子歌手の仲間入りすることになります。ちなみに、05年に放送された日本テレビ系ドラマ『野ブタ。をプロデュース』では、主演の亀梨和也がギターを弾きながらこの曲を唄っていました。
亀梨和也バージョン「真夜中のギター」はコチラ!
島谷ひとみバージョン「真夜中のギター」はコチラ!

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ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」

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ザ・ドリフターズ「ドリフのズンドコ節」無料音楽動画視聴
1969年にザ・ドリフターズがカバーして、当時としては異例の115万枚を越える大ヒットした「ドリフのズンドコ節」です。

この「ドリフのズンドコ節」は、1969年11月1日に発売され、オリコンチャート最高2位となり81万枚を売り上げて、ザ・ドリフターズの代表曲となりました。

なお、志村けんがザ・ドリフターズに加入後「志村けんバージョン」も発売(シングル『ゴーウェスト』のB面に収録)されましたが、志村けんがソロで歌う部分以外では明らかに荒井注のものと思われる声が随所に入っており、おそらくは荒井注のソロの部分だけを志村に差し替えたものだと思われます。ちなみに、この「ドリフのズンドコ節」は、翌80年のオリコン年間シングル売り上げ第2位に記録される大ヒットでした。

藤圭子「新宿の女」

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藤圭子「新宿の女」無料音楽動画視聴
新宿の女」は、1969年9月25日に発売された藤圭子のデビューシングルで、オリコンチャート最高9位となって37万枚を売り上げた、藤圭子のヒット曲です。

デビュー当時の藤圭子の声は、女性ハスキーヴォイスの先駆者である青江三奈をもしのぐドスの効いたもので、それは衝撃的なものでした。ちなみに、74年に喉のポリープの手術を受けると、それまでの凄みが薄れ、かつてよりやさしい声になってしまいまいます。

この「新宿の女」は、演歌歌手として不動の地位を確立していく藤圭子を代表する1曲になります。69年発売のこの「新宿の女」から始まって、翌70年発売の「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」「命預けます」など次々とヒット曲を連発。70年発売のアルバム『新宿の女』は20週連続1位、間をおかず続く2ndアルバム『女のブルース』は17週連続1位と、実に37週連続で1位という空前の記録となっています。

岡林信康「山谷ブルース」

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岡林信康「山谷ブルース」無料音楽動画視聴
日本のフォークを語る上で絶対に忘れられない”フォークの神様”とも言われている岡林信康の代表曲「山谷ブルース」です。

岡林信康は、60年代の後半から1970年代の初頭にかけて「友よ」「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」など、名作・問題作を発表しています。

この「山谷ブルース」は、日雇労働者の悲哀を歌ったもので、山谷とは東京の台東区・荒川区にある寄せ場(日雇い労働者の滞在する場所、俗に言うドヤ街)の通称で、岡林信康が実際に山谷に滞在して作ったものだそうです。

バニラ・ファッジ「キープ・ミー・ハンギング・オン」

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バニラ・ファッジ「キープ・ミー・ハンギング・オン」無料音楽動画視聴
バニラ・ファッジの代名詞となっている、この「キープ・ミー・ハンギング・オン」ですが、元々はシュープリームスが唄って全米No.1となった曲で、バニラ・ファッジのファースト・アルバム『キープ・ミー・ハンギング・オン』からシングル・カットされ、全米チャート6位になる大ヒット曲でした。

また、3分ほどに短縮されて収録されたシングル・バージョンとは別に、アルバムではスローで色彩感の強い7分の曲にアレンジされた、フル・ヴァージョンの「キープ・ミー・ハンギング・オン」が収録され、アルバム『キープ・ミー・ハンギング・オン』も全米6位となっています。

ちなみに、バニラ・ファッジは、66年から69年まで活動していたアメリカのバンドで、バンド名の由来は、当時のアメリカで販売されていたアイスクリームの商品名からとったもの。この「キープ・ミー・ハンギング・オン」は日本でもヒットし、オリコンチャート最高11位で20万枚の売り上げを記録しています。

越路吹雪「愛の讃歌(賛歌)」

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越路吹雪「愛の讃歌(賛歌)」無料音楽動画視聴
昭和を代表するスターであり現在のJ-POPの先駆者的存在でもある越路吹雪の代表曲「愛の讃歌(賛歌)」です。

越路吹雪と言えば、宝塚歌劇が生んだシャンソンの女王。この「愛の讃歌(賛歌)」は、その越路吹雪が師と仰いだエディット・ピアフが歌い、その後も世界中の多くのアーティストにって歌われ、日本でも美輪明宏、美川憲一、淡谷のり子と多くの歌手によってカバーされてきたシャンソンの名曲です。

この「愛の讃歌(賛歌)」の日本語歌詞は、越路吹雪のマネージャーであり作詞家の岩谷時子により作詞され、原詩が「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容であるのに対し、岩谷訳詩では一途な愛を貫くという賛歌となっています。なお、越路吹雪はこの「愛の讃歌(賛歌)」を、1969年の第20回NHK紅白歌合戦に出場した際に歌唱。また「愛の愛の讃歌(賛歌)」が収録されているレコード・CD等の売上枚数は200万枚以上を数えているそうです。

奥村チヨ「恋の奴隷」

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奥村チヨ「恋の奴隷」無料音楽動画視聴
恋の奴隷」は、1969年6月1日に発売された奥村チヨのシングルで、オリコンチャート最高2位となり52万枚をセールスした、奥村チヨの代表曲です。

奥村チヨは、65年に「私を愛して」でデビュー。和製シルヴィ・バルタンとして売り出され、小悪魔的な魅力と甘えたような歌い方でたちまち人気となります。この「恋の奴隷」は、いわゆる”恋3部作”(他2曲は、「恋狂い」「恋泥棒」)と言われる、奥村チヨのヒット・ナンバーで、「恋の奴隷」の大ヒットで、人気歌手としての地位を確立しました。

それまでのコケティッシュな雰囲気に、新たに官能的な魅力も加わり、この年の第20回NHK紅白歌合戦に奥村チヨは初出場を果たします。しかし、「恋の奴隷」は、NHKの内規で歌うのを禁じられ、代わって「恋泥棒」で出場しました。

森進一「港町ブルース」

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港町ブルース」は、1969年4月15日に発売された森進一のシングルで、オリコンチャート第1位となり107万枚を売り上げた、森進一の代表曲です。

アポロ11号が月面着陸に成功し、人類がはじめて月面を踏んだ69年、我が日本では全国の港町の情景を織り込んだ森進一の「港町ブルース」が大ヒット。このヒットにより、森進一は同年暮れの第11回日本レコード大賞で弱冠21歳でありながら最優秀歌唱賞を受賞します。また「港町ブルース」は、同年のオリコン年間シングル売上げ第2位を記録します。

同年の第20回NHK紅白歌合戦では、出場2回目にして白組のトリを史上最年少で森進一が果たすこととなりました。ちなみに森進一の紅白でのトリの回数は9回で前年の第19回から39回連続で紅白出場しており、これは現在も継続中の最多連続出場記録となっています。

いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」

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いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」無料音楽動画視聴
ブルーライト・ヨコハマ」は、1968年12月25日に発売されたいしだあゆみのシングルで、オリコンチャート第1位となり100万枚を売り上げた、いしだあゆみの代表曲です。

いしだあゆみは、64年「ネェ、聞いてよママ」でレコードデビュー。68年にレコード会社を移籍して、同年末に発売された「ブルーライト・ヨコハマ」が69年初頭から大ブレークし、一躍人気歌手の仲間入りをします。

ブルーライト・ヨコハマ」の大ヒットで、いしだあゆみは69年の第20回NHK紅白歌合戦に初出場。以後77年まで9年連続出場を果たしました。ちなみに「ブルーライト・ヨコハマ」は、69年のオリコン年間シングル売上げで第3位に記録されています。

ビートルズ「ゲット・バック(Get Back)」

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1969年4月11日(国内では6月1日)に発売されたビートルズの19枚目のシングル「ゲット・バック(Get Back)」です。

この頃、すれ違いが大きくなったビートルズを危惧したポール・マッカートニーが、「もう一度原点に戻ってやり直そう」と言う事で始めたゲット・バック・セッション用に作られた曲で、歌詞中にあるジョジョとは当然ジョン・レノンの事であり、ヨーコに没頭しビートルズに対する意欲を失っていたジョンに対して、ポールが必死に戻って来いと呼びかけています。

ちなみに「ゲット・バック」は、全世界で1,000万枚をセールス。日本では18万枚を売り上げオリコンチャート最高10位となっています。また、ビートルズのリードギターは、主にジョージ・ハリスンが担当していますが、この「ゲット・バック」ではジョン・レノンのリードを聴くことが出来ます。

ビートルズ「ジョンとヨーコのバラード」

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ジョンとヨーコのバラード(Ballad of John and Yoko)」は、1969年にジョン・レノン作で発表されたビートルズ20枚目のシングル曲です。

この「ジョンとヨーコのバラード」は、ジョン・レノンが小野洋子と再婚した時の騒動を綴った、ビートルズの公式発表曲としては唯一のジャーナリスティック・ソングで、日本では1969年7月10日に発売され18万枚を売り上げてオリコンチャート最高11位となりました。

イギリスでは当然の如くチャート第1位、アメリカでは歌詞中にキリスト教を冒涜しているとして、「ジョンとヨーコのバラード」を放送禁止にしたラジオ局も多かった為、最高でチャート8位とビートルズのシングルとしては振るいませんでした。

ジリオラ・チンクエッティ「雨」

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ジリオラ・チンクエッティの「」は、1969年3月20日に日本では発売され35万枚をセールスするヒットとなり、オリコンチャート最高6位に記録されたジリオラ・チンクエッティの代表曲です。

64年にビートルズが初来日して、ビートルズ旋風が巻き起こってるさなか、ヒットチャートでビートルズの最大のライバルとなっていたのが、イタリアが生んだシンデレラガールの彼女でした。この「」は、そんなジリオラ・チンクエッティの69年のサンレモ音楽祭入賞の作品になります。

カンツォーネの妖精とも呼ばれたジリオラ・チンクエッティの「」は、02年のトヨタ「Vitz」のCMでお聴き覚えのある方も多いはず。オールドファンには堪らない1曲ではないかと思います。

クリフ・リチャード「しあわせの朝」

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クリフ・リチャード「しあわせの朝ー」無料音楽動画視聴
しあわせの朝(EARLY IN THE MORNING)」は、2度目の来日をしたクリフ・リチャードが来日記念盤として日本のみで発売されて大ヒットしたシングルです。。

クリフ・リチャードは、バックバンドのシャドウズと共に、ビートルズ時代が到来する前の1950年代末から60年代初めにかけてイギリスのポップミュージックシーンを席巻したイギリスの歌手。

この「しあわせの朝」は、1969年9月21日にリリースされ34万枚を売り上げる大ヒットとなり、日本各地でのツアーも大成功を収めました。

弘田三枝子「人形の家」

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人形の家」は、1969年7月1日に発売された弘田三枝子のシングルで、57万枚を売上げオリコンチャート第1位となった、弘田三枝子の代表曲です。

弘田三枝子は、コニー・フランシスの「ヴァケイション」などのカバーでも有名なる実力者シンガーです。その並外れた歌唱力とパンチの効いた歌声で、当時は「ポップスの女王」とも呼ばれており、日本におけるR&Bの開拓者であります。

同年暮れの日本レコード大賞では、この「人形の家が歌唱賞を受賞し、第20回NHK紅白歌合戦にも「人形の家」で、2年ぶり2回目のカムバックを果たし話題になりました。

フィフス・ディメンション「輝く星座(AGE OF AQUARIUS)」

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フィフス・ディメンション(The Fifth Dimension)の1969年のヒット曲「輝く星座(AGE OF AQUARIUS)」です。

フィフス・ディメンションは、主に60年代後半に活躍した男女混声の黒人5人組のアメリカのコーラス・グループ。ミュージカル「ヘアー」の最初の曲と最後の曲をくっつけた「輝く星座~レット・ザ・サンシャイン・イン」が代表曲になっています。

我が国では、フィフス・ディメンションの「輝く星座」は、1969年5月1日にリリースされ、37万枚を売り上げてオリコンチャート最高9位となるヒットでした。

新谷のり子「フランシーヌの場合」

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フランシーヌの場合」は、1969年6月15日に発売された新谷のり子のデビューシングルで、30万枚を売り上げてオリコンチャート最高4位となった、新谷のり子の代表曲です。

学生運動の闘士でもあった新谷のり子。この「フランシーヌの場合」は、ベトナム戦争に心を痛めて、69年3月30日にパリで起こした政治的抗議のための焼身自殺した、当時30才の女性フランシ-ヌ・ルコントを唄って大ヒットしました。

ちなみに「フランシーヌの場合」発売の6月15日は、反安保の日(1960年6月15日に樺美智子が死亡したことに因む)。この年の最大の事件、東大安田講堂事件は69年1月の事。まさに時代を代表する1曲です。

ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」

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白い色は恋人の色」は、1969年10月1日に発売されたベッツィ&クリスのシングルで、55万枚を売上げオリコンチャート最高2位となった、ベッツィ&クリスの代表曲です。

ベッツィ&クリスは、ハワイ出身のベッツィとアイダホ出身のクリスによるフォークソングデュオ。69年にサウンド・オブ・ヤングハワイアンズのメンバーとして来日した際にスカウトされて「白い色は恋人の色」でデビューします。

この「白い色は恋人の色」は、同年のオリコン年間シングル売上げ第11位に記録されています。ちなみに近年では、01年公開の映画『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲』の挿入歌に使用されていました。

ビートルズ「カム・トゥゲザー(Come Together)」

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カム・トゥゲザー(Come Together)」 は、1969年に発表されたビートルズのアルバム『アビイ・ロード』に収録されたジョン・レノン作のロックンロール・ナンバーです。

日本では、1969年11月21日にシングル「カム・トゥゲザー」はリリースされ、21万枚を売上げてオリコンチャート最高6位に記録。英米では「サムシング」と共に両A面のシングルとして発売され、全米1位、全英4位となり、ジョン・レノン作のビートルズナンバーとしては、最後の全米チャート1位となった曲になります。

後にジョン・レノンは、「カム・トゥゲザー」について「ビートルズ時代の曲の中で一番好きな曲」と語っており、解散後にもニューヨークでのチャリティーコンサートでも演奏しています。ちなみに、ビートルズの版権の多くを現在所有しているマイケル・ジャクソンも、88年11月に映画「ムーンウオーカー」の最後でこの「カム・トゥゲザー」をカバーしており、95年のベストアルバム『ヒストリー』にも収録され、エアロスミスによるカバーでも有名です。

ゾンビーズ「ふたりのシーズン」

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ふたりのシーズン(Time of the Season)」は、1969年3月21日に国内販売されたゾンビーズ(The Zombies)の大ヒットシングルで、28万枚を売り上げてオリコン最高6位となったゾンビーズの代表曲です。

ゾンビーズは、イギリスのバンド。64年にデビュー。1stシングル「シーズ・ノット・ゼア(She's Not There)」が大ヒット(全英12位・全米2位)。65年には「テル・ハー・ノー(Tell Her No)」が全米で6位となるヒットを放ちますが、68年に発表したアルバム「オデッセイ・アンド・オラクル」がまったくヒットせず、バンドは解散してしまいます。その後、米で「ふたりのシーズン」がシングルカットされて全米2位のヒットとなりました。

ゾンビーズと言えば、60年代半ばにザ・カーナビーツのカヴァー曲で「好きさ好きさ好きさ」がお馴染みだと思います。近年日本では、日産ティーダのCMソングに「ふたりのシーズン」が使用されて話題となりました。

はしだのりひことシューベルツ「風」

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はしだのりひことシューベルツ「風」無料音楽動画
ザ・フォーク・クルセダーズの一員であったはしだのりひこをリーダーに、当時ジローズとして京都で人気を得ていた杉田二郎、バニティーのおちゆうじ、井上博の四人によって結成されたはしだのりひことシューベルツのデビュー曲でもあり最大のヒット曲がこのです。

」は、1969年1月10日に発売され、60万枚に迫るセールスを上げ、オリコンチャートでは最高位2位を記録し、今尚日本のフォークソングの名曲として記憶に残る1曲です。

はしだのりひことシューベルツは、この年の第11回レコード大賞の新人賞をで受賞。尚、70年に入りベースの井上博が腎臓病で倒れ死去。残念ながら70年6月にはしだのりひことシューベルツは解散することとなります。

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